- 灘・魚崎郷の恵みを受けて
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全国の酒処のなかでも生産量で日本一を誇るのが、“灘五郷”と称されるこの地です。
当蔵はその中でも上灘と呼ばれる酒造りの中核地、“魚崎郷”に位置しております。昔からこの近域で作られている「山田錦」は、数ある酒造好適米の中でも最高峰といわれており、上質な酒造りには欠かせません。また、“灘五郷は水でもつ”という言葉があるように、灘地方は天然のミネラルを豊富に含んだ六甲山の伏流水が豊かに湧き出る地としても有名です。
「六甲おろし」と呼ばれる冷たい風や、海運に有利な地勢にも恵まれ、灘の醸造技術は極限まで高められていきました。江戸時代にはその馥郁たる香りや味わいから“上方の下り酒”として、大名から商家、庶民と広く愛されました。最盛期には江戸の酒の8割方が灘の下り酒で占められたともいわれています。
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- 創業者・小山屋又兵衛
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今から二百年以上も昔、江戸時代の後期、現在の兵庫県加古郡播磨町で生まれた初代 小山屋又兵衛が、この灘の土地で杜氏として学んだことが、浜福鶴とその親会社にあたる小山本家酒造の始まりです。
灘で学び、埼玉へと渡り歩き、酒造りに邁進した又兵衛の情熱は代々受け継がれ、1989年には所縁のある灘で、浜福鶴の前身にあたる当時の「福鶴」と力を合わせ、伝統の酒造りを継承していくことになりました。
魚崎郷の旧「福鶴」
- 二百年の時を重ねる酒造り
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同地区にはトップシェアを誇る大手酒造メーカーも林立していますが、当蔵は地酒蔵元として「福鶴」ブランドの独自性を保ちながら、規模に左右されない、愛される味一筋に歩んできました。昭和30年過ぎまでは魚崎浜も白砂青松の風雅な趣を残しており、当蔵元も浜辺まで50メートル程に臨む、まさに“鶴が舞い福来たる”という名にふさわしい佇まいでした。
時代の流れの中で厳しい経営環境に直面することもありましたが、当時の経営者、職人たちの努力や、たくさんのお客様のご愛顧のおかげもあり、長きに渡って酒造りを継続することができました。
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- 阪神淡路大震災を乗り越えて……
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1995(平成7)年に発生した阪神淡路大震災では、当蔵元も甚大な被害を受けました。情緒ある木造酒造蔵の街並みは全壊して、茫然の感がありました。灘五郷すべての蔵元が被災しましたが、「世界に誇る日本酒の伝統や文化の灯を消してはならない」と、地域一丸となって事業再開に奮起しました。
震災で全壊した旧福鶴蔵
幸いにも、日本酒造りの生命線である井戸水は枯れることがなく、私達は苦難を乗り越えることができました。この井戸水を断水した近隣被災者の方々に約一ヶ月間に渡り給水し続け、「生命の水」と頼りにされました。
危機を乗り越えた当蔵の井戸
- 伝統の酒造りを継承する蔵として再生
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復興を機に、灘本来の伝統的な酒造りを行う酒蔵に生まれ変わり、質の高い吟醸酒造りの工房を持つ「浜福鶴」として再出発を図りました。
1996年(平成8)年には、ガラス越しに酒造りの工程を見学いただける蔵に全面改修。“造る” “見せる” “販売する”の三拍子そろった見学酒蔵として、近隣のお客様や、国内外を問わず様々な地域から観光に来られるお客様にご来館いただいております。
美味しい酒を造りたい、灘の酒造りを絶やすことなく世に届けたいという一途な想いは、二百年の時を超えて今なお「浜福鶴」の中に息づいています。
近代的な「見学酒蔵」として再建